2022.02.20.
教会学校は2月27日(日)まで「生徒が集わない礼拝(休校)」を継続いたします。教会学校の礼拝は9:00牧師、教会学校長、教師が守りますので、皆さまはご自宅で「本日の聖書箇所」を開き、CS通信の「本日のお話」をお読みいただき、祈りを合わせてください。
尚再開についてはホームページでお知らせいたします。
休校中の礼拝式次第 2月27日
さんびか 讃美歌21-56番(主よ、いのちのパンをさき)
お祈り
聖 書 マルコによる福音書14章22~26節
説 教 「聖餐を守りなさい」渡邊義彦牧師
お祈り
献 金
頌 栄 こどもさんびか26(グロリア、グロリア、グロリア)
祝 祷
讃美歌21-56番(主よ、いのちのパンをさき)
1.主よ、いのちの パンをさき、
あたえたまえ われらに。
祈りもとむ ひたすら、
主のいのちの みことば
2.ガリラヤにて したしく
パンを祝しし 主イエスよ。
示したまえ、 われらに
主のまことの みことば。
3.主よ、いのちの 聖霊を
送りたまえ、われらに
語りたまえ みことば
見させたまえ みすがた
●2月27日「聖餐(せいさん)を守(まも)りなさい」
マルコによる福音書:14章22~26節
中心聖句:22節【一同(いちどう)が食事(しょくじ)をしているとき、イエスはパンを取(と)り、賛美(さんび)の祈(いの)りを唱(とな)えて、それを裂(さ)き、弟子(でし)たちに与(あた)えて言(い)われた。「取(と)りなさい。これはわたしの体(からだ)である。」(新91ページ)】
今日は「聖餐(せいさん)」ってどういうことかということを聖書から聞きましょう。
キリスト教会(きょうかい)では毎日曜日礼拝をしますが、その礼拝になくてはならないものがいくつかあります。まず聖書(せいしょ)が読(よ)まれること、二つ目はその聖書の言葉(ことば)を分(わ)かり易(やす)く、集(あつ)まった人たちに伝(つた)える説教(せっきょう)。三つめは聖餐(せいさん)です。そのほか献(けん)金(きん)とか罪(つみ)の告白(こくはく)、賛美歌(さんびか)を歌(うた)うなどありますが、最初(さいしょ)の三つは礼拝にはなくてはならないものなのです。教会(きょうかい)学校(がっこう)の礼拝は洗礼(せんれい)を受(う)けた人たちがする礼拝と同(おな)じようなことをしていますが、聖餐(せいさん)はありませんね。またこの聖餐を礼拝がある時には必(かなら)ずしている教会と、月(つき)に一度(いちど)、それから教会(きょうかい)の特に大事(だいじ)な日、復活(ふっかつ)聖(せい)日(じつ)、聖霊(せいれい)降臨(こうりん)の主(しゅ)日(じつ)、そして降誕祭(こうたんさい)の主日だけしている教会もあります。
でもこの「聖餐」をなぜ教会は大事にしているのでしょうか。そのことが今日の聖書の個所(かしょ)で分(わ)かります。
イエスさまといっしょにいたお弟子さんたちにはまだ分かっていなかったのですが、イエスさまにはご自分がこれから受(う)ける苦(くる)しみ、十字架(じゅうじか)の死(し)がはっきり見えていたのです。
その時のイエスさまのお心(こころ)をヨハネ福音書(ふくいんしょ)はこう書いています。「イエスは、この世(よ)から父(ちち)のもとへ移(うつ)る御(ご)自分(じぶん)の時(とき)が来(き)たことを悟(さと)り、世(よ)にいる弟子(でし)たちを愛(あい)して、この上(うえ)なく愛(あい)し抜(ぬ)かれた」と。それでイエスさまはこの弟子たちと最後(さいご)の「過(す)ぎ越(こ)しの食事(しょくじ)」をなさることになさいました。
みんながテーブルを囲(かこ)むと、イエスさまは「パンを取(と)り、賛美(さんび)の祈(いの)りを唱(とな)えて、それを裂(さ)き、弟子(でし)たちに与(あた)えて言(い)われました。『これはわたしの体(からだ)です。取(と)って食(た)べなさい。』」弟子たちはそれぞれ、イエスさまが割いてくださったパンを食べました。それから今度は、「ぶどう酒(しゅ)の杯(さかずき)を取(と)り、感謝(かんしゃ)の祈(いの)りを唱(とな)えて、彼(かれ)らそれぞれにお渡(わた)しになりました。彼(かれ)らは皆(みな)その杯(さかずき)から飲(の)みました。そして、イエスはこうおっしゃいました。『これは、多(おお)くの人(ひと)のために流(なが)されるわたしの血(ち)、契約(けいやく)の血(ち)です』」と。「契約(けいやく)の血(ち)」というのは約束(やくそく)の印(しるし)の血(ち)です、ということですが、そのお約束は「イエスさまの割(さ)かれた体(からだ)と血(ち)であなたがたの罪(つみ)が赦(ゆる)されるのだ」というお約束(やくそく)なのです。
わたしたちキリストの教会にはどこかに必(かなら)ず十字架(じゅうじか)があります。イエスさまをキリストと信(しん)じて洗礼(せんれい)を受(う)けた人たちはこの十字架を仰(あお)ぎながら、主(しゅ)の日(ひ)の礼拝(れいはい)には聖書(せいしょ)から神(かみ)さまのお言葉(ことば)を聞(き)き、そのお言葉をもっとよく分かるようにしてくださる説教(せっきょう)を聞き、そしてこの聖(せい)餐(さん)のテーブルを囲(かこ)むことで、やがて世(よ)の終(お)わりにまたイエスさまがいらして、イエスさまを中心(ちゅうしん)にした大(おお)きな礼拝(れいはい)を守(まも)る日を待(ま)ち望(のぞ)んでいるのです。