牧師 渡邊義彦
2026年10月
二人は、「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」と語り合った。 (新共同訳聖書)
エルサレムからエマオへと旅をした二人の弟子たち、クレオパともう一人の名は記されていませんが、無名のもう一人の弟子をめぐっての出来事をこれだけ大きく取り上げてくれているのは、このルカ福音書だけです。しかし、ルカはとても生き生きとした筆の運びで、この出来事を伝えてくれています。この二人の弟子たちは、キリストが復活されたことがわからない、信じられなかったところから、キリストが復活されたことを信じ、そして理解する者へと生まれ変わらせていただいた者たちでした。
エルサレムからエマオまで、60スタディオン、11キロほど、エルサレムからエマオまで歩いて半日ほどの旅でしょうか。冒頭にあります、ちょうどその日、というのは、キリストが復活された日、イースターの日ということですが、二人の弟子が、いっしょに歩いてくださっているが、よみがえられたキリストだとはまだわからずにいて、一所懸命、この朝にエルサレムであったことを説明しているのです。この朝には、前の週の金曜日に十字架で死んでしまわれた主イエスの体を納めた墓が、この日曜日の朝には墓の蓋が開かれ、中は空っぽだった、金曜日にお納めしたはずの、主のお体はもう墓にはなかった、と朝一番に墓を訪ねた女性たちが驚きの知らせをもたらした。弟子たちも、このことに驚き、墓に行って見たのだが、主のお体を見つけることはできなかったのだ、と彼らは主に一所懸命説明しているのです。主が、「ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの行ったことすべてを信じられない者たち」と嘆いておられるように、しかし、主がこのように嘆かれているこの嘆きには暗さがないというか、このところは、復活を信じない者たちに、復活なさった方が相対してくださっているところで、彼らが一所懸命、空っぽの墓のことを説明している、というややとんちんかんな、くだけていうならば漫才のボケと突っ込みのような場面なのです。彼らは、今朝エルサレムの弟子たちにもたらされた驚きのニュースを彼らも聞いて、しかし、この知らせの結末を知らされることのないままに半日の道のりにあって、この彼らと共に、よみがえられた主が、復活をまだ信じられないでいる彼らと共に歩んでくださるのです。
まだ復活を信じられずにいる彼らを、嘆きつつも、ため息をつきつつも、しかし慈しまれ、憐れまれる主の御顔とは対照的に、まだ目開かれていない、彼らは暗い顔をしていた、といいます。それは、復活を信じられずにいた、いや正確には、信じるも何も、彼らは、復活を知ることも、理解することもなかった、そのはるか以前に彼らはまだ留まっていた、ということなのだと思うのです。ですから、彼らは、暗い顔をしていた。明るい顔をできなかった。信頼してきたお方が死んでしまわれたからです。金曜日の十字架に主イエスは死んでしまわれた、ここに彼らの思いは停止したままでした。暗い顔というのは、死を克服できていない者たちの表情です。彼らは期待していたのです。あのお方が、イスラエルを解放してくださるお方だ、と期待していた、しかし、あのお方は殺されてしまった。
ここで、弟子たちの考えていた解放は、政治的な解放、絶対的と思われたローマ帝国の支配からの解放、この世的な解放に彼らの考えは留まっていた、ということだと思うのです。彼らの考える解放は、この世のことであって、この世での命が終わってしまえば、それで解放の戦いは終わってしまう、としか彼らは考えることができなかったということでしょう。力ある預言者がもたらしてくれるはずの革命は実現しなかった、あの方は死んでしまった、ここに留まったままです。
この彼らを、主は、どうなさったでしょうか。御自身が復活なさったことを、彼らが知らないままにしておかれたでしょうか。主は、もう一度、道々、聖書の話をなさいました。メシアが、このように十字架の苦しみを受けて、そして復活の栄光に入ることを聖書は語っているではないか、と聖書全体にわたり、御自分のことを説明してくださったのでした。後々、弟子たちは気づきます。「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えたではないか」と彼らは気づかされたのでした。キリストが生きておられる、このことを知り、信じ、そして理解するために、聖書がどうしても必要です。
そして、このように彼らが目を開かれるために、もう一つ必要だったのは、主と食卓を囲む、ということです。主がパンを裂かれることに彼らが立会ったとき、彼らは、目の前におられるお方が、よみがえられた主イエス・キリストであることに、はじめて目開かれて、気づいたのです。聖書の言葉を聞くことによって耳開かれ、食卓の所作によって、食卓に主が共にいてくださる、主が裂き分けてくださるパンを味わうことによって、彼らは目開かれたのです。聖書がまことにメシアを語る書物であり、彼らは主が復活なさったことを信じることから、さらにさかのぼって、主が十字架に苦しみを受けられたのは、わたしたちを救われるためであった、と知り、信じ、理解したのでした。十字架の悲しみと、しかし深い感謝と喜びとを彼らは理解しました。彼らの顔はもう暗くなかったのです。
主は生きておられる、主はわたしたちを救ってくださる、主はわたしたちの救い主、この信仰を共に告白することにこそ、わたしたちの生きる力の源はあります。たとえ、この世に悲しみや苦しみがあろうとも、主が生きておられる、復活の命を信じ、希望し続けることは、わたしたちの生きる力となるのです。主を信じることの幸いに共に生きてみましょう。
(伝道月間 6月7日 特別伝道礼拝説教)