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牧師 渡邊義彦 

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2022年09月

巻頭言

 ところで、わたしたちは、このような宝を土の器に納めています。この並外れて偉大な力が神のものであって、わたしたちから出たものでないことが明らかになるために。わたしたちは、四方から苦しめられても行き詰まらず、途方に暮れても失望せず、虐げられても見捨てられず、打ち倒されても滅ぼされない。わたしたちは、いつもイエスの死を体にまとっています、イエスの命がこの体に現れるために。                                
      (新共同訳聖書・コリントの信徒への手紙二第4章7〜10節)

 毎朝、納豆を盛る決まった陶器があります。厚ぼったい深さの浅い鉢の器です。義父が、脳梗塞を患い、リハビリのためにろくろを回して陶器づくりに励んでいました。その作品のひとつです。義父が召されて12年になります。所々に力の入れ具合がうまくいかなかったのでしょうか、手の跡、指の跡が残っています。それを見る度、ああ義父がこの器になる土を不自由な手でこねて、土に触りながら、ろくろを回しながら、ここに力を入れながらこの器を形にしたのだな、と不思議な思いになります。これまでも食事の度に、いくつものいろいろな器を手にして、食事してきましたが、器を作った人にまで改めて意識して思いが及んだのははじめての気がします。いびつに歪んだ跡に義父の手の業を見る思いがします。
 聖書は、わたしたちは神の作品であり、神が土をこねて作られた土の器である、と語ります。人間は死ねば再び土に還っていくという、古代の人たちの素朴な人間観がその表現には表わされているのかもしれません。しかし、このわたしたちに神の御手の業がしるされているのです。そして、聖書はさらに、この土の器に、神は息を吹き入れられて、霊を吹き込まれて生きる者とされた、と語るのです。単なる土の器、単なる道具ではなく、神の霊と交わる存在として、神は、わたしたち、土の器に霊を吹き入れてくださったのです。
 使徒パウロは、わたしたちは土の器に尊い宝を盛っている、と言います。それは、わたしたちが死ぬことにおいても、キリストの命がこのわたしたちに現されるためなのだ、と言います。はかなく土に還ってゆくわたしたちの体であるけれども、キリストは、わたしたちに永遠の命、この命を盛る体の復活を約束くださっています。この約束に希望を置くことにこそ、まことの幸いがあると信じます。

日本基督教団 柿ノ木坂教会