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牧師 渡邊義彦 

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2025年07月

巻頭言

 わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。
  (新共同訳聖書・マタイによる福音書第28章20節)

 マタイ福音書は、その最後に、弟子たちが、復活された主イエスと共に山に登ったことを記します。生活の場所から分かたれたときと場所が山です。主イエスが、御自身の主としての栄光のお姿を、ペトロ、ヤコブ、ヨハネ、ごく限られて弟子たちにお示しになったのも、やはり山の上でした。旧約聖書にはるかさかのぼって思い起こすならば、エジプトの奴隷であるところから救われて、出エジプトしたイスラエルの民が、荒れ野の旅のはじまりにこれからの生き方、主に仕え、隣人に仕える仕方を、主なる神から教えていただいた十戒を、モーセが授けられたのも、やはり山の上でした。日常から離れて山に登ります。弟子たちが漁をしてきた湖という生活の場、エマオ途上という日々の旅路の中で、生活をし、暮してきた部屋において、復活された主は御自身を現わされます。そして、この山の上で、山は主なる神を礼拝する場所です、この礼拝の場で、復活された主は、この礼拝の主でいてくださいます。弟子たちが山に登った、ということは、礼拝の主、復活されて生きておられる主と最も近くいさせていただくところに近づけられて登って来た、ということです。
 主は、ここで弟子たちの伝道をお命じになります。しかし、この伝道命令を記す前に、マタイは、この山に登って来た者たちのうちに疑う者もいたことを記してくれています。主が復活されたことを疑う者、主がわたしたち罪人を救われる救い主でいてくださることを疑う者、主イエス・キリストが十字架と復活の主であられることを疑う者、ということでしょう。人間の現実を、実に小さな言葉ですが、マタイは、鋭く描き切っています。疑う者もいた。疑う者がいるということは、信じることのできない人間の姿をしっかりと見据えています。主なる神を神としない、主なる神が御子において果たしてくださった救いを信じない、人間の愚かさ、人間の悲惨です。
 わたしたちはどうでしょうか、信じることにおいて一切の曇りなくあるでしょうか。信じていることを、一切の澱みなく、家族に、隣人に語ることができるでしょうか。胸を張って、わたしの信じ方に一切の陰も、曇りもないと言い得るでしょうか。
 しかし、主は、疑う者がいることを十分に御存じのうえで、それでもなお、伝道をお命じなります。信じることにおいて、一切の曇りはない、とはとても胸を張っては言えない者たちに、しかし、福音を宣べ伝えよ、と仰る。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。」 主が権能をお持ちであるのです。そして、伝道の対象はすべての民なのです。一部の限られた人たちだけではない、すべての民なのです。
 主の権能は普く及んでいます。礼拝を献げているのは、この日本という国において実にマイノリティーでしょう。全人口の1パーセント、クリスチャンの人口は100万人を下回っていると言われています。わたしたちの過ごしている、この世界の時間と空間だけを考えると、クリスチャン人口は減少している、高齢化している、これからどうするのか、ということかもしれません。
 しかし、この柿ノ木坂教会というまことに小さな群れに、洗礼を受ける人が一人誕生するならば、天においては、救われてキリストのものとなる人の人数は、確実に一人増えるのです。主は言われます。「あなたがたは行って、すべての民を弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。」すべての民なのです。主は、一部の人が洗礼を受ければよい、となさらない。すべての民なのです。
 すべての民が、キリストの御前に跪いていることを、まだ見ていないとしても、すべての民が、主の御名を賛美することの幻を失ってはなりません。地において洗礼を授かる者が一人誕生することは、天において、御国の国籍を持つ者が一人加えられるのです。御国の民は増え続けてゆくのです。
 主は、「わたしは天と地の一切の権能を授かっている」と仰り、「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」と言われます。主がおられないところも、おられないときも、一つところも、ひとときもないのです。キリストは、御自身の権能は、地上にも、天にも及んでいるとおっしゃいます。キリストの御支配なさらないところは、どこにもないのです。天にも、地にも、陰府にさえも、すべてにキリストの権能がおよび、御支配が及んでいます。

 最後に、ひとつの詩に聞いてみましょう。
 江戸から明治に時代が移ってゆく中で建設されてゆく、わたしたち日本のプロテスタント教会のはじまりに立っている牧師である、植村正久牧師が翻訳をした詩である、と言われています。植村牧師が、愛する幼い娘を失った悲しみの中で触れた英語の詩を訳したものである、と言われています。

 天に一人を增しぬ
 家には一人を減じたり 樂しき團欒は破れたり 愛する顏平常《いつも》の席に 見えぬぞ悲しき
 さばれ天に一人を增しぬ 清められ救はれ全うせらしもの一人を
 家には一人を減じたり 歸るを迎ふる聲一つ見えずなりぬ 行くを送る言一つ消えうせぬ
 分かるゝことの絕えてなき濱邊に 一つの靈魂は上陸せり  天に一人を增しぬ
 家には一人を減じたり 門を入るにも死別の哀れ堪えず 内に入れば空しき席を見るも淚なり
 さばれはるか彼方に 我らの行くを待ちつゝ 天に一人を增しぬ
 家には一人減じたり 弱く淺ましき人情の霧立ち蔽いて 歩みも四度路《しどろ》に眼もくらし
 さばれみくらより日の輝き出でぬ 天に一人を增しぬ 實《げ》に天に一人を增しぬ
 土の型にねち込まれて 基督を見るの眼もくらく 愛の冷かなる此処《ここ》 いかで我らの家なるべき 
 顏を合わせて吾が君を見奉らん 彼所こそ家なれまた天なれ
 地には一人を減じたり 其の苦痛、悲哀、勞働を分かつべき一人を減じたり、旅人の日毎《ごと》の十字架を擔うべき一人を減じたり
 さばれ贖はれしたましひの冠を戴くべきもの 一人を天の家に增しぬ
 天に一人を增しぬ 曇りし日も此一念に輝かん 感謝讃美の題目更に加はれり
 吾らの靈魂を 天の故郷に引き揚ぐる 鏈の環更に一つの輪を加へられしなり
 家に一人を增しぬ 分るゝことの断えてなき家に 一人も失はるゝことなかるべき家に
 主耶蘇よ 天の家庭に 君とともに坐すべき席を 我ら全てにもあたえたまえ

 この英詩の原作者もまた、愛する者を天に送った悲しみの中で、信仰を確かめつつ、復活の主を信じつつこの詩を書いたのです。
 伝道する教会は、見える教会としてこの地上に建てられており、終わりの日に至るまで教会員数を増加させ、見えない仕方で天にまで至る教会として建てられているのです。
 たとえ、地上には、悲しみも、苦しみを果てることないとしても、絶望してはなりません。よみがえられた主は、わたしたちが生きるときも、たとえ死んだとしても、必ず共にいてくださいます。

日本基督教団 柿ノ木坂教会