イエス・キリストが「このように祈れ」と教えてくださった祈りです。
天にまします我らの父よ
ねがわくはみ名をあがめさせたまえ。
み国をきたらせたまえ。
みこころの天になるごとく
地にもなさせたまえ。
我らの日用の糧を、今日も与えたまえ。
我らに罪をおかす者を 我らがゆるすごとく、
我らの罪をもゆるしたまえ。
我らをこころみにあわせず、
悪より救い出したまえ。
国とちからと栄とは
限りなくなんじのものなればなり。
アーメン
昔、神さまがモーセを通して、神さまの恵みに対して人がどうこたえるべきかを示した言葉です。
わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である。
(出エジプト記20章2節~17節)
「主の祈り」や「十戒」が聖書の中の言葉であるのに対して、「使徒信条」は教会の言葉、教会が何を信じているかを表した言葉です。教会の信条にはいくつかありますが、「使徒信条」は紀元2世紀にその原型を持ち、紀元4世紀にほぼ今の形になって以来、現在まで変わることなく告白され続けてきた最も古くからの信仰告白です。教会ではふつう文語でこれを唱えていますが、柿ノ木坂教会では口語のものを毎主日礼拝の中で告白しています。
我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず。
我はその独り子、我らの主、イエス・キリストを信ず。
主は聖霊によりてやどり、処女マリヤより生れ、
ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、
十字架につけられ、死にて葬られ、陰府にくだり、
三日目に死人のうちよりよみがへり、
天に昇り、全能の父なる神の右に坐したまへり、
かしこより来りて 生ける者と死ねる者とを審きたまはん。
我は聖霊を信ず、聖なる公同の教会、聖徒の交はり、
罪の赦し、身体のよみがへり、永遠の生命を信ず。
アーメン
我らは信じかつ告白す。
旧新約聖書は、神の霊感によりて成り、キリストを証し、福音の真理を示し、
教会の拠るべき唯一の正典なり。
されば聖書は聖霊によりて、神につき、救ひにつきて、
全き知識を我らに与ふる神の言葉にして、信仰と生活との誤りなき規範なり。
主イエス・キリストによりて啓示せられ、聖書において証せらるる唯一の神は、
父・子・聖霊なる、三位一体の神にていましたまふ。
御子は我ら罪人の救ひのために人と成り、
十字架にかかり、ひとたび己を全き犠牲として神にささげ、
我らの贖ひとなりたまえり。
神は恵みをもて我らを選び、
ただキリストを信ずる信仰により、我らの罪を赦して義としたまふ。
この変らざる恵みのうちに、聖霊は我らを潔めて
義の果を結ばしめ、その御業を成就したまふ。
教会は主キリストの体にして、恵みにより召されたる者の集ひなり。
教会は公の礼拝を守り、福音を正しく宣べ伝へ、
バプテスマと主の晩餐との聖礼典を執り行ひ、
愛のわざに励みつつ、主の再び来たりたまふを待ち望む。
我らはかく信じ、代々の聖徒と共に、使徒信条を告白す。
我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず。
我はその独り子、我らの主、イエス・キリストを信ず。
主は聖霊によりてやどり、処女マリヤより生れ、
ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、
十字架につけられ、死にて葬られ、陰府にくだり、
三日目に死人のうちよりよみがへり、
天に昇り、全能の父なる神の右に坐したまへり、
かしこより来りて 生ける者と死ねる者とを審きたまはん。
我は聖霊を信ず、聖なる公同の教会、聖徒の交はり、
罪の赦し、身体のよみがへり、永遠の生命を信ず。
アーメン