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牧師 渡邊義彦 

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2019年05月

6月 巻頭言

   兄弟たち、わたし自身は既に捕らえたとは思っていません。なすべき
  ことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、神が
  キリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、
  目標を目指してひたすら走ることです。
     (新共同訳聖書・フィリピの信徒への手紙第3章13、14節)

 コラムとしては、少し時間が経って新鮮さが無くなった話題ですが。新年初めの駅伝を観ながら考えたことです。繰り上げスタートというルールについてです。襷が往路、復路とつなげられてきて、しかし、いくつかのチームは、制限時間内に次の中継所まで襷が運べず、時間が来ると次の走者は襷が届かないけれども、その中継所からスタートしなくてはならないのです。アナウンサーは、汗の滲んだ襷はつながりませんでした、と感動的にその場面を描写します。競技時間の短縮、交通規制の早期解除など制約があることはわかりますが、切ない場面です。
 この襷が物理的につながらないということを考えました。わたしたちは、たくさんの人たちに福音を伝え、信仰を受け継いでもらいたいと願い、祈り続けています。しかし、宣べ伝える福音がすべての人に受け入れられるのでもなく、信仰が受け継がれるのでもありません。特に、愛する家族が、自分の最も大切にしていることを理解してくれないことほどつらいことはありません。信仰の襷がつながらない、ここまで懸命に走ってきたのに、という思いになることがあります。
 また、せっかく引き受けてくれた信仰の襷を、彼が、彼女が人生の途上で手放してしまったのか、と思えるようなことに出会うこともあります。ほんとうに、がっかりと、寂しくなることです。
 しかし、先の駅伝のことをもう一度思い起こしてみると、たとえ繰り上げスタートをしたとしても、それは競技時間の都合によるのであって、競技としては成立していて合計の走行時間が算出されて、失格、途中棄権となるわけではないのです。襷が物理的につながらなかったとしても競技は続いているのであり、それでもなお走者は少しでも前へと襷を携えて走っているのです。自分が手渡すべき次の走者が既に出発してしまった中継所を目指し走っている走者も、後から来る襷を受取れずに出発した走者も。みんな懸命に、前に前に走っているのです。冒頭に引いた聖書の言葉を記した使徒パウロも、そんな競技者たちの姿に自分たちに信仰のありようを重ねたのでしょう。
 この五月には、子供たち、大人たち、柿ノ木坂教会の礼拝に集う者たち皆が一時、一所に集まっての合同礼拝をささげました。わたしたちの信仰を受け継いでくれる、後ろから走ってきている者たちがいます。わたしたちの前を懸命に信仰の馳せ場を前へ前へと開拓してくれている人たちがいます。信仰の襷はなお途切れていない、そう信じるのです。

日本基督教団 柿ノ木坂教会