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牧師 渡邊義彦 

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2019年04月

4月 巻頭言

       神はお造りになったすべてのものを御覧になった。
       見よ、それは極めて良かった。
            (新共同訳聖書・創世記第1章31節)

 三学期終わりに近い幼稚園の園児礼拝に、卒園を控えた子供たち、下のクラスの子供たちが集いました。この礼拝の中の話で、世界は誰ものか、と子供たちに問うてみました。子供たちは、「世界はみんなもの」と大きな声で答えました。あまりにしっかりとした答えでしたので感心すると共に、少し焦りました。わたしが子供たちに期待していたのは「世界は神さまのもの」という答えだったからです。「世界はみんなのもの」。これまで聖書に聞いてきた卒園間近の子供たちもいましたので、期待するレスポンスがあるものと思っていましたが、予想していない答えでした。あわてて、急遽、準備してきた話を頭の中で組み立て直さなくてはなりませんでした。
 「世界はみんなのもの」という答えは、彼ら、彼女たちが考え得る答えでは、最も良いものであったと言えるかもしれません。世界を我がものにしようという独り善がりの大人が世界の指導者たちの中にも見られるような現代、世界は自分のものと答えず、幼い仕方ながら公共ということを言い表したことは確かに感心すべきことです。けれども、教会に建てられた幼稚園で過ごした子供たちには、世界は神さまのものであると知っていてほしかった。それでもなお期待するならば、世界は神さまのものと声を挙げなかった子たちもいたのかもしれません。
 これから彼らは、世界は神さまのものだとは知らない多くの人たちの中に巣立ってゆきます。そこでは、この幼いときに育てられた素朴な信仰は大きな挑戦を受けるでしょう。しかし、本当に大切なことはその子に残されるのです。主がこれを取り去ることなく残してくださるのです。
 「世界はみんなのもの」、この答えには驚きましたが、よかったなとも思います。もう一度、彼らに、世界は神さまのものだよ、と伝えることができたからです。幼稚園から巣立って行ったとしても、彼ら、彼女たちが進んで日曜日の礼拝に来てくれるならば、御言葉が、教会の信仰が、彼らの信仰を守るでしょう。小学生からの礼拝で子供たちが手にするテキストの最初にこうあります。
 問い「あなたは誰ですか。」
 答え「わたしは神さまの子どもです。」
       (「わたしたちは神さまのもの — はじめてのカテキズム」)
 世界は神さまのものである。わたしは神さまの子どもである。このことは信仰をもってはじめて理解できることです。聖書は、その冒頭で、神さまがおられるか、おられないかといった不毛な議論は一切しません。神さまがおられる、おられる神さまがわたしたちに何をしてくださったのかから語りはじめます。世界は神さまのものである、ここからわたしたちのすべてを出発させるのです。この信仰は、わたしたちの世界の見方を一変させてしまい、世界の変転の中でわたしたちを確かに支えるのです。

日本基督教団 柿ノ木坂教会